「ミレルヴァーナの夕闇」  そのA


 その日の夜。それは起こった。
 エルメは小屋の中のベッドで眠り、カシミスは外で眠る事になった。別々の場所で眠ろうと提案したのはカシミスはの方だった。いくらこんな情況と言えども、妻以外の女と屋根を共にする事は出来なかった。自分は今、妻の後を追う為にここにいるのだ。ここまで来て別の女に気を寄せてしまったら、ここにいる意味が無くなってしまう。死ぬその時まで、カシミスは妻の事を忘れたくなかった。
「‥‥」
 さっきまで二人で見ていた風景。それを一人で見つめながら、カシミスはエルメの言っていた事を思い出して、少し恐くなっていた。
 私が尽くしてあげましょうか? と言われ、カシミスは確かに少しだけ嬉しい気分になった。欠けた心が潤った何かで癒されていく気になった。カシミスはそれが嫌だった。嬉しいと感じてしまった自分が、嫌だった。本来は妻がいるはずの所に別の女がいる事に耐えられなかった。
 目に映る情景は美しく、月だけがカシミスを見つめている。ここは街の喧騒も聞こえない。自分しかいないように思える。
「‥‥」
 なかなか寝付けない。目を閉じると、エルメの姿が否がおうにも思い起されてしまう。
扇情的な彼女の瞳が、カシミスを見つめる。麻の服をゆっくりと脱ぎ捨て、肉付きのいい肢体を見せ付けるエルメ。カシミスの頭を振って、その幻惑を捨てようとする。
 そんな時だった。小屋の扉が開いた。カシミスは驚いて体を起こし、扉の方を見る。そこには、幻惑で見た通りのエルメがいた。そう、一糸まとわぬエルメがいた。
「‥‥何なんだ? 服を着ろ」
 そうカシミスは言い放つが、エルメは不適な笑みを浮かべたまま、ゆっくりとカシミスの方に歩いてくる。カシミスはわけが分からず、四つん這いになってエルメから逃げようと藻掻く。
「淋しいんでしょ? 奥さんが死んで。私が、そんなあなたを癒してあげるわ」
「余計な事をするな!」
「余計な事? もう二度と奥さんは戻ってこないのよ? あなたの心にぽっかりと空いてしまった空洞を、私が埋めてあげようって言うのよ。何が余計なの?」
 月明かりを受けて、この上なくいやらしく見えるエルメの体。程よく膨らんだ胸、くっきりとくびれた腰、そして見る者全てを虜にさせる悩ましげな陰部。金髪の向こうで輝く二つの瞳は、鄙猥に潤んでいた。
 カシミスはエルメから目を反らし、必死に怒鳴る。
「いいんだ、空洞のままで。その空洞を埋めるものなど無い。だから俺は死ぬんだ」
「あなたは不幸よ、カシミス。埋めようと思えば簡単に埋められるのに、無理矢理それを拒んでる。私の気持ちなど、決して癒されないのよ。他の人を愛してもあの人への憎悪は消えない。許す、なんて気持ちにはなれない。でも、あなたは違う。その空洞はいつかは埋めなくてはいけない」
 カシミスの前まで来たエルメは前屈みになり、カシミスの瞳を見上げる。しかし、それでもカシミスはエルメの目を見ようとはしない。
「‥‥都合のいい事言うな。お前が俺に抱かれれば、お前も旦那のように他の異性に気を移した事になる。やってる事は同罪。許すも何も無い。お前はただ、旦那への仕返しのつもりで、俺に抱かれたいだけなんだろ?」
 そう言うと、エルメは途端に扇情的な笑みを消す。そして、どこか憤怒しているような顔になり、カシミスの胸に顔を押しつける。
「よく分かってるじゃない。その通りよ。でも、そのどこが悪いって言うの? 私達は偶然にも死のうとして生き残ってしまった。これってつまり、神が私達に生きろって言ってるんじゃない? だったら、死ぬ理由を消すべきだわ。私達は体を重ねる事で、死ぬ理由を失うのよ」
「俺は‥‥妻を忘れたくない」
「二度と会えない人の為に死ぬの? ぎりぎりまで生きてこそ、奥さんへの弔いになるんじゃないの?」
 カシミスの麻の服をゆっくりと脱がし、上半身を裸にしたエルメは、桃色の舌でカシミスの乳首を舐める。ゾクゾクッとした快感がカシミスの背筋を駆け抜けていく。
「やめろ‥‥」
 懸命にカシミスは声を押し出す。しかし、体は既に目の前の熟れた肢体を求め、手がのびていた。言葉と体がちぐはぐだった。
「やめない」
 エルメは更に舌を突き出して、カシミスの乳首を刺激する。両手でカシミスの股間を服越しに愛撫すると、股間はカシミスの意志とは裏腹に男の反応を示してしまう。
「嫌だって言いながらも、ちゃんと反応してるじゃない。あなたの、ここ」
 淫靡に微笑むエルメは、カシミスの下半身の服も脱がし、そそり立ったカシミスのモノに舌を這わせ、細い指先で裏側を撫で上げる。カシミスは嫌悪で顔を背けるが、無理に抵抗する事もしない。妻が床に伏してから今日まで、カシミスは女とまったく体を重ねていなかった。そのせいもあってか、エルメの愛撫は予想以上に心地好く感じられてしまった。
「ふふっ‥‥んんっ‥‥ん」
 手で金髪をかきあげたエルメはより一層舌の動きを早めていく。時折口に含んでは愛おしそうに吐き出し、また含む。カシミスの視線に嫌でも入ってくるエルメの艶かしい項で、カシミスの興奮は意志とは反してどんどん膨らんでいく。
「んんんっ‥‥ぷはぁ‥‥んふふ」
 カシミスのモノから口を離したエルメは不敵な微笑みを浮かべたまま、カシミスを上目遣いで見つめる。肩や胸には月に照らされた汗が玉雫のように美しく光り輝き、太股の付け根からは既に透明の液体が漏れ出ていた。
「抱かれたいのよ、あなたに」
 耳元で妖艶に囁いてみせるエルメ。カシミスは顔を伏せていたが、地面を掴んでいた手手がゆっくりとエルメの胸に引かれていく。そして、指先がエルメの胸に触れたその瞬間、カシミスは力任せにエルメを地面に押し倒した。エルメは驚いた様子も無く、何か吹っ切れたような顔のカシミスを見つめる。
「お前が誘ったんだからな。後悔するなよ」
「もちろん」
 あなたもね、と言おうとして、エルメはその言葉を押し止めた。今のカシミスに妻に関係するその言葉は禁句だ、と瞬間的に判断したのだ。
 カシミスは狂った獣のようにエルメの唇を貪り吸う。今まで押さえていた気持ちが爆発したかのように、その口付けは激しかった。
「んっ‥‥‥んんんっ」
 両手でエルメの頭をしっかり押さえ付け、唇を押しつけ、舌を吸い甘噛みする。エルメは予想以上に乱暴なその行為に少し驚いたが、すぐにその激しい愛撫に応えるように舌を絡ませる。
「んんっ‥‥‥はあっ。結構、乱暴なのね。もっと紳士的かと思ってた」
「相手がお前だからだ。フロリアだったら、もっと優しくやってたさ」
「へえ。私は乱暴でもいいんだ?」
「ああっ。お前はフロリアじゃないからな」
 何故そんな事を言ってしまうのか、カシミス自身分からなかった。ただ、心の奥底に潜む形の無い悪魔が首をもたげ、囁いていた。
 フロリアは見ていない、と。


「俺はもう‥‥死ぬしかない。フロリアを裏切った。もうこの世にはいたくない」
「私、言わなかった? ぎりぎりまで生きてこそ奥さんへの弔いになるって」
 服を着た二人は、体を重ねた所に腰掛け、行為の前も後も何も変わっていない透明な湖を見つめている。夜は既に完全に更け、遠くに見える街からも光は漏れてこない。
「俺は弔いになると思ってお前を抱いたわけじゃない‥‥。お前が‥‥裸で俺の前に現れるから‥‥」
「妻がどうだこうだ言っても、結局は目の前の女の誘惑に勝てないんじゃ、あんたの思いもその程度だったって事ね」
「何だと!」
 カシミスは歯を剥出しにして激昂する。しかし、エルメの顔は何の変化も無く、依然として勝ち誇ったような顔をしている。
「やるだけやっておいて、今更何よ?」
「‥‥くそっ!」
 反論出来ず、カシミスは悔しそうに歯軋りをする。エルメはそんなカシミスの頭を優しく撫でてやる。
「私、あなたみたいな人、好きよ。旦那にも自慢できるわ。私だって、その気になればすぐに男くらい虜にできるわって」
「でも‥‥もうその術も無い。お前はぎりぎりまでなんて言ってるけど、ここに来てしまった以上、向こうには戻れない。食べ物も無い。結局、死ぬ事に変わりはない」
 エルメの愛撫にどことなく安心感を抱きながら、カシミスはぼやく。確かにカシミスの言う通りだった。この湖を泳いで渡る事は出来ない。ここには食べ物も無い。ここからは出られない。何を言おうと、死ぬ事は運命づけられている。
 しかし、エルメは相変わらず飄々としていた。そして、こんな事を言った。
「大丈夫よ、きっと」
 それを聞いて、カシミスの顔に驚愕の表情が浮かぶ。
「何だって?」
「大丈夫よ、きっと。さっきね、小屋の中にいた時、私、見つけちゃったの」
「何を?」
「‥‥抜け道」
 エルメはそう言うと、カシミスにウインクをしてみせた。


 小屋の中にある大きめのベッド。カシミスがそのベッドを移動させると、そこには木のフタらしきものがあった。そこだけ、はっきりと切り目があったのだ。カシミスがその切り目に爪を入れて思いっきり持ち上げると、フタは見事に開いて、ポッカリと穴が顔を出した。
「細かな事は分からないけど、以前ここに来た人、つまり、この小屋を作った人の死体の欠片はおろか、着ていた服すらまったく無い。それってあまりにも不自然だと思わない? だから私思ったの。どこかにここから抜け出す抜け道があるんじゃないかってね。そうしたら、案の定よ」
 エルメは得意気に言う。カシミスはじっとその穴を見つめる。はしごらしきものがついていて、行こうと思えば下まで行けそうだった。しかし、穴の果てはまったく見えない。
「本当に抜け道なのか?」
「それ以外考えられる?」
「だったら、何でわざわざ隠すんだ? 隠す必要なんて無いだろう?」
「‥‥」
 エルメは小首を傾げて、黙ってしまう。
 この穴の先に、本当に希望があるのだろうか? カシミスは深い闇を見つめながら思う。普通、この小島には来れない。しかし、自分達のように偶然にもここに来てしまった者が過去にいたとしても、不思議ではない。なにせ、自分達は今ここにいるのだから。
 その小島に建てられた一軒の小さな小屋。その小屋に隠されていた穴。もしこの穴が本当に外の世界へと通じる穴ならば、何故この小屋を建てた人物は穴を隠したのだろう? 
この穴は見つかってはいけないものだったのだろうか? 分からない。
「行くも何も、ずっとここにいても、本当に死ぬだけだわ。行きましょう」
 隠す事への答えを見出だせないまま、エルメは気を取り直して言う。しかし、カシミスの顔は曇ったままだ。
「死ぬだけだわって、お前、死ぬんじゃなかったのか?」
「あなたに抱かれて気が変わったの。言ったじゃない、自慢したいって」
「‥‥」
 無言のカシミスの背中をエルメが軽く叩く。気移りの激しいエルメに翻弄されながらも、
カシミスははしごに手をかけた。カシミス自身、生きる死ぬという事以前に、猛烈にこの穴の底が見たい衝動に駆られていた。


 穴の中はほぼ完全な暗闇だったが、道がまったく見えない程ではなかった。しかし、その僅かの光がどこからか入り込んでいるのかは分からなかった。
 道は人一人が通るには十分な広さで、滑らかな岩に囲まれている。果ては見えず、カシミスとエルメは手を繋いで、ゆっくりとした足取りで進んでいった。
「‥‥きっと、街につながっているわ」
「だといいな」
「どうして、そんなに消極的なの?」
「‥‥」
 怒った口調のエルメの顔を、カシミスは見ようとしない。どうしても、彼女の言う通りすんなりと街に行けるとは思えなかった。
 穴は洞窟と呼べる程長く続いている。どうやら、湖の下を通っているようだ。しかし、
水の一滴すらも洞窟内には落ちていない。驚くほど空気は乾いていて、ここが湖の下だという事を忘れてしまう程だった。それに、上が湖なら、この僅かな光はどこから入り込んできているのだろうか? 隙間があるなら、水が流れこんでくるはずだ。分からない事だらけだった。
「‥‥」
「‥‥」
 歩きだして数分経っただろうか。カシミスは不意にその足を止めた。エルメが眉をしかめてカシミスの背中を突く。
「何してるのよ、早く行きなさいよ」
「‥‥フロリア」
「えっ?」
 エルメはカシミスの前方を見つめる。青白い光の中に、人影があった。エルメの目には輪郭だけがうっすらと見えているだけだったが、確かにそこには人がいた。
 その人影が音も無く二人に近づいてくる。輪郭が人の形を色付けていく。それは女だった。腰を覆う程にのばされた髪の毛、細く、掴んだだけで砕けてしまいそうな華奢な体。そして、その体はカシミスと同じ麻の衣服に包まれている。
 透き通るような、琥珀色の瞳がじっとカシミスを見つめていた。
「‥‥カシミス」
 竪琴のような、澄んだ声が響く。カシミスはその場に立ち尽くし、口を開けたまま死んだはずの妻の姿を見入っている。エルメは初めて見たカシミスの妻の姿に、目を細める。その目には明らかに疑惑の色が浮かんでいた。
「フロリア‥‥。お前、生きてたのか?」
 フロリアは何も言わず、ただうっすらと薄弱な笑みを浮かべたままだ。声を震わせながら、カシミスはフロリアに歩み寄っていく。まるで吸い寄せられているかのようだ。
 そんなカシミスの肩をエルメが強く掴む。
「ダメよ! あの人はもう死んだのよ! あれは肉体の無い魂だけの存在。触れたらきっとあなたは死ぬわ」
「うるさい、黙れ! 俺にはフロリアが必要なんだ。お前なんかいらない! 消えろ!」
 カシミスはエルメの手を懸命に振り払おうとする。しかし、エルメは離そうとしない。爪を立て、夢遊病者のように生無き死人に近づこうとする。
「ふふっ‥‥カシミス」
「なっ‥‥何だ? フロリア」
 カシミスの目の前まで来た足を止めたフロリアは、エルメよりも細い腕をのばし、カシミスの頬に触れる。冷たい感触が広がる。カシミスは涙を流して、目の前に微笑みを見つめる。
 そして、フロリアは言った。
「カシミス‥‥。私と、行きましょう。望んでいるんでしょう? さあ」
 生きていた頃と何も変わらない、朗らかな笑顔。カシミスは息をする事さえ忘れて、首を何度も縦に振る。
「ああっ、行くとも。俺はお前さえいればいいんだ」
「何言ってるの! カシミス。正気に戻りなさい!」
「フロリア‥‥フロリア」
 突き立てられた爪から血を出しながらも、エルメは必死にカシミスを食い止める。しかし、カシミスはそれに応えようとしない。
 フロリアの指先がカシミスの胸に触れる。そして、そのままカシミスの体内にまで潜り込んでいく。血も出ず、カシミスも痛がる様子を見せない。フロリアはにんまりと笑うと
、エルメの方を見る。エルメにはその顔が異様な程恐ろしく見えた。
「あなた‥‥私のカシミスをたぶらかしたわね。許せないわ。あなたには、最も苦しい地獄がお似合いよ」
 フロリアは静かにそう言うと、もう片方の手をエルメにかざす。その瞬間、どこからか鮮血が吹き飛んだ。
「‥‥えっ?」
 どこから血が出たのか、エルメには分からなかった。しかし、再び血が吹き出る。額から血の川が流れ落ちてくる。エルメはカシミスから手を離し、額に手を当てる。生暖かい
感触が手の平にじんわりと広がった。
「二人共死ぬけれど、カシミスは天国。あなたは‥‥決して休まる事の無い永遠の地獄」
 エルメの体中から血が吹き出る。毛穴という毛穴から血飛沫があがる。あっという間にエルメは血だらけになる。髪も服も何もかもが深紅に染まる。痛みは無い。しかし、エルメの視線が虹色に揺らめく。
「あっ‥‥」
 立て膝をつき、エルメはそのまま俯せに倒れてしまった。そして、もう身動き一つしなかった。暗闇に赤い色だけがはっきりと滲んだ。
「フロリア‥‥ああっ、フロリア‥‥」
 エルメが倒れた事すら気づいていないカシミスは、一心不乱にフロリアの名を呼び続ける。息をしなくなったエルメから目を離したフロリアは、カシミスににっこりと微笑みかける。
「行きましょう、カシミス。唯一、私だけを愛してね」
「ああっ‥‥」
 ゆっくりとフロリアはカシミスの胸から腕を引き抜く。その手には、鈍く輝く光がある。
フロリアは小さく笑うと、その光を握り潰した。
 フロリアはカシミスの手を取り、ゆっくりと歩きだす。暗闇のその先には、無数の人々が待っている。皆、笑顔で二人を見つめている。
「フロリア‥‥。俺は君しか愛していないよな?」
 カシミスは少しぼんやりとした表情で訊ねる。フロリアはそんなカシミスに影のある笑みを返した。
「ええっ。あなたは、今まで私しか愛してなかったわ」


 ミレルヴァーナが夕闇に染まっていく。しかし、その水面は夕闇を写しはしない。水面は消え去り、朽ちた人々の骸が月光に照らされていく。その死体の中にフロリアの死体もあった。
 そして、骸の中に更に二つの死体が増えていた。一人は至福に満ちた笑顔で、そしてもう一人は苦痛に歪んだ顔で。
 誰も、彼らを救い出す事など出来ない。そこは死者達の集う場所。そして、魂の集う場所。
                                                                         終わり


あとがき
タイトルから先に生まれた作品。「ミレルヴァーナ」という言葉が好きで、「なんかその言葉に合う物語を作ろう」という順番で出来ました。英語とも言えない不思議な名前の連中ですね。こういうのは結構苦手だったりします;; 作品の舞台が日本でもアメリカでもないので(というか、今ある世界じゃないし)、こんな名前にしちゃったけどね。


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